「祈り」を込めて描く画家、鶴 晃如(つる あきゆき)。
台湾のアートフェアで完売、個展では3桁にのぼる作品を販売するなど、わずか1年余りで大きな成果を挙げた新進気鋭の作家。
しかし、輝かしい功績の裏には、20年以上絵が描けなかった空白の時間があります。その間には、他人への劣等感や、借金と過労、そして「尊敬する父」と「人生を変えてくれた恩人」を相次いで失った深い喪失がありました。
絶望を経てなお再び筆を取った彼が描くのは、ただ美しい絵ではなく「人を幸せにするための祈り」。
今回は、その人生の軌跡と作品に込める想いを伺います。

Keito鶴さん、今日はよろしくお願いします。



こちらこそ、よろしくお願いします。
作品に込める「祈り」 ─ 作風のテーマと作家活動の現在地







鶴さんの作品って「繊細」というか、「美しい」みたいな印象があります。どのようなテーマで作品を描いているんですか?



自分の中のテーマは、「祈り」です。作品によって変わるけど、そういう想いは込めています。
それと、自分の名前が「鶴 晃如(つる あきゆき)」だから、鶴の絵を描いてますね。



なるほど。作家活動はどれくらいですか?



今年(2025年)の12月で2年になります。



あれ?思ったよりも最近ですね。



そうですね。まだまだヒヨッコ作家です。(笑)



それで、台湾のアートフェアで完売したり、個展で3桁の販売したりですか……。凄いですね。



絵は3歳から描いていたし、本格的に学んだ時期もあります。なので、全くの素人からのスタートじゃないってのは大きいかもしれません。
とはいえ、自分が活動できているのは、本当に人のご縁だと思います。
いつから画家を志したのか ─ 幼少期から学生時代までの原体験



じゃあ、幼少期から画家になりたかったんですか?



いや、そうではありません。
絵は描きたいと思ってたけど、「アーティストになろう」と明確に思ったのは2年前ですね。



ちなみに、絵が好きになったきっかけはあるのでしょうか?



自分が絵を描くと、病気がちの親が喜んでくれたことが大きかったと思います。
絵を描いた分だけ周りが笑顔になるから、当時は夢中でした。



なるほど。学生時代は独学で絵を描く、みたいな感じですか?



高校までそうですね。
母は聾学校*の教員で、父は大学の教授ってこともあって、高校は進学校に入学しました。
※聾学校(ろうがっこう):聴力に障害のある児童・生徒が学ぶ学校



高校時代は学業に専念されていたんですね。



めっちゃ勉強を頑張ったわけではないんですけどね。(笑)
当時は友達とバンド組みながら絵を描いてました。友達に作品を見せると「お前、画家になれるよ!」って言われて。
それが嬉しくて、絵は描き続けたいと感じた記憶があります。



高校卒業後は大学に?



19歳で上京して「新宿美術学院」っていう美大・芸大に受かるための専門学校に通ってました。
絵が描けなくなる20年の始まりー上京、美大受験、そして挫折



その時から作家になりたいと?



親には「大学行って教員になったら?」と言われたけど、絶対にイヤだって思ってました。(笑)なんせ教員をしている親が大変そうだったので。
絵が好きなこともあって、親のすねをかじりながら逃げるように東京に行った感じです。



なるほど。本格的に学んでいた、というのはこの頃ですね。



そうですね。
ただ、実際は自分が思っている世界ではなかったんです。



というと?



なんだろう、受験対策ばっかりで。対策絵画やデッサンの連続で、周りもアトリエにこもってひたすら描く人ばっかりだったんです。
そんな中にいると、「自分って何が描きたいんだろう……?」ってなって。周囲と比較して、自分には才能がないって思いました。



そういった話はよく耳にします。やっぱり過酷なんですね……
その状態でも描き続けたんですか?



親にお金だしてもらってるので。(笑)
なんとか技術で「東京造形大学」に入学できたけど……当時はとにかく必死でしたね。



それでも合格したのは凄いことだと思います。



合格こそしたものの、周りのレベルが高すぎて。
そもそも作家って2〜3%しか成功しないって世界で、「この人たちでも無理なの?!」って思いました。
だから、大学の入学と同時に心は完全に折れたんです。
370万円の借金と極度の過労



じゃあ、大学時代はどう過ごしたんですか?



デザイン学科の方がキラキラしてて、「俺もそっちがいい!」と思って。その流れで、友達にバンド誘われてやってみたり、バイトして遊んだりですね。(笑)



ここでもバンドですか!何かと音楽とも縁がありますね。



絵に関しては、周りの意識や技術が高すぎて、正直ついていけなかったんです。
自分なりには頑張っていたんですけど、技術云々より「この人たちと同じ熱量になれない自分は絵を描いたらダメだな」って思ってしまって。
結局、中退したんです。



その後は音楽に専念する、ということですか?



専念するっていうほどかっこいいものじゃないですよ。ノリで始めたバンドだったので。
プロダクションに所属してそれなりにお客さんは来てくれたけど、そんな甘い世界じゃなかったですね。





絵は完全に辞めたんですか?



完全に辞めています。絵を描きたいって想いはあったけど、「自分が描いてもな」って考えてました。
というか、「自分は描いてはいけない」って気持ちだったかもしれません。



なるほど……
でも、プロダクションに入って音楽活動できるレベルも凄いですね。



ありがたいんですけどね。ただ、バンドメンバー内ですれ違いがあって。よくある話かも知れないけど、結局は空中分解みたいな形で解散したんです。
それで、CDのプレスの山と借金だけが残りましたね。



借金ですか?



楽曲制作費用とか、事故もあって借金をしたんです。



楽曲制作費って、プロダクションが負担するイメージでした。



本来はそうなんだけど、空中分解したので仕方ないですね。
それが25歳くらいだったと思います。



ちなみに、どれくらい借金したんですか?



370万円くらいです。
消費者金融を片っ端から回って、リボ払いもフル活用していました。だから、返済しても借金が減らなくて。(笑)



25歳でそれは厳しい状態ですね。
当時はそんな生活だったのでしょう?



昼は通信キャリアの営業をして、夜は水商売。その繰り返しの日々でした。
過労で何度もぶっ倒れて……もう同じことはできないと思います。



ハードワークですね……
あれ、鶴さんお酒強くないですよね。水商売は大丈夫だったんですか?



気合いですね。(笑)



(笑)
兄と呼べる人との出会い─ 起業家の兄貴分と“叱責”から始まる転機



ハードワークをしている時代は、どんな気持ちだったのでしょう?



「なんで俺がこんなことしないとダメなんだよ」ですね。(笑)
終わりのないレースを走ってる感じだったと思います。



そうですよね。
どうやって、過酷な状況から脱したのでしょう?



きっかけは、当時の姉の彼氏との出会いです。
人生で唯一憧れた人で、兄貴って呼んでました。





どのような方なのでしょう?



起業家で、かっこいい。初対面ではちょっと怒られちゃったんですけどね。(笑)



怒られたんですか?



初めて会った時、名刺代わりに自分のCDを渡したんです。
その時に、曲に自信なくて「ピッチずれてますが……」とか「他のメンバーが……」とか、保険を張りながら渡したんです。



そのときは、もう音楽に対する熱は冷めていたんですか?



それはあると思います。
ただそれよりも、兄貴に「これ、最後のアルバムだと思って本気で作ったの?」って言われたことが衝撃で。
言い訳ばっかりしていた自分からすると、ハンマーで頭殴られた気持ちになりましたね。



ごめんなさい、今の鶴さんからは全く想像がつかないです。
当時は他責思考というか、「人のせいにするタイプ」だったんですか?



めちゃくちゃ外向でした。「あいつのせいで」って思ったことは何度もあります。
さっきも伝えたように、「なんで俺がこんな目に」って、しょっちゅう考えてたと思います。



人に歴史あり……ですね。



そこから、兄貴の親友のななごさんって人を紹介してもらって。
その二人がめちゃくちゃカッコよかったんです。稼いでて、好きなことしてて。「俺もこうなりたい!」って思いました。



借金返済のための生活ですもんね……



こっちはダブルワークして過労で倒れてるのに、兄貴はどんどん成功していって。「なんでだろう?」って思ってました。
それで、自分も現状を本気で変えないとダメだって考えて、兄貴に相談したんです。



なんて相談したんですか?



「その稼ぎ方、俺にも教えて」って。



その聞き方、怒られませんでした?(笑)



「舐めるな!!」って、ブチギレられましたね。
本気で。(笑)



(笑)
ビジネスの道から福岡に戻るまで─ 借金返済と安定、そして家族の時間



それからは、腹括って兄貴から事業を教えてもらうことになったんです。
「1年で結果出なかったら、福岡に帰って就職しよう」と思って、本気でビジネスに取り組みました。



借金は残っている状態ですよね?



そうですね。
自分に退路はなく、「これで結果出せなかったら人生終わる!」くらいの気持ちでやってました。



なるほど。事業はうまくいったのでしょうか?



もちろん、紆余曲折はありました。失敗もしたし、借金のプレッシャーはなくならないので。
ただ、兄貴のいうことは全部聞いて、とにかく行動したと思います。
人とのご縁もあって、事業はうまくいきました。これは助けてくれた人のおかげです。



借金を返済して、時間とお金が安定したんですね。



そうです。それくらいに子どもができて、「子育てするなら福岡がいいな」って思って。
経営していた飲食店とかを友人に譲って、32歳で福岡に戻ってきましたね。



福岡に戻ってからは何を?



基本的には子育てです。家族との時間や友人との交流を楽しんでました。
親父が「小さい頃の晃如と遊んでやれなかった」って後悔してたんです。
僕は気にしてないけど、そういうのも大切だなって思って。



それも幸せの形だと思います。
ただ、絵はまったく描いてないですよね?



描いてないですね。アートに携わることはしたいと思ったけど、「自分は絵を描ける人じゃない」って気持ちは残ってたので。
やりたいけど、やっちゃダメだって、一歩踏み出せなかったんです。
父と兄、尊敬する二人の他界─ 喪失と無気力の時間



基本的には子育てをしながら、兄貴さんや親族と会う、という生活ですか?



そうですね。
子育ては楽しいし、子どもの成長が見られることも嬉しかったです。



なるほど……鶴さんはどうやって画家の道に戻ったのでしょう?



ターニングポイントは、4年前(2021年)に父と兄貴が他界したことにあると思います。
尊敬している大切な人を立て続けに失ったんです。それが、人生を考えるきっかけにはなったと思います。



ショックですね……
その経験から、アートの道に戻る決心がついたのでしょうか?



いや、当時は廃人みたいになってました。子どもは昔ほど手がかからなくなって、できることは減ってくるんです。
仕事は完全に辞めていたので、何もしない時間が3年くらい続きました。



その3年間は、どんな生活だったのでしょうか?



言葉の通り、何もしていないんです。
パチンコ行って、家でごろごろして、ボーっとしての繰り返しでした。
「何してるんだろう?」と思いながら、本当に無気力な時間を過ごしていましたね。



やっぱり、尊敬する方々の他界が大きかったのですか?



そうですね。
「自分って何がしたいんだろう」とか、「人生の時間ってどうやって使えばいいんだろう」って、ただ時間を潰すだけの日々でした。
人によっては贅沢に聞こえるかもしれないけど、自分にとっては地獄の時間でしたね。



「時間を潰すだけの時間」が続くのは辛いですよね。
周囲の方も心配されたでしょう……。



ななごさん(兄貴の親友)と、「俺たちは生きてるんだから、やりたいことを本気でやろう!」って話をしたこともあります。
「もうアーティストとして名乗ろう」とも言ってもらえました。
それでも、自分の中で「絵を描きたい」という思いはあったものの、どうしても動けなかったんです。



どうして、そこまで考えてしまうのでしょうか?



「今さら自分が描いても……」ですね。当時の自分はこれに尽きたと思います。
ただ、アートに携わりたいとは思っていたので、「なんかいい話あったらなぁ」くらいに考えてました。
アーティストとしての鶴晃如へ



「羅針盤を失った旅人」って感じですね。ずっと、途方に暮れている気がします……。
そこから画家になるまで、何があったのでしょうか?



きっかけはすごく単純です。
2年ほど前に、福岡のギャラリー運営を手伝うことになったことです。



いわゆる、「ギャラリスト」のような感じですか?



運営を手伝ったり、絵の販売をしたりですね。
そこで、アート作品に触れる機会が多くなりました。



あ、それがきっかけで、自分でも描き始めるんですね!



いえ、最初は描かなかったんです。
どちらかというと、作家の応援をすることが自分の役割、だと思っていたので。



鶴さん、なかなか手強いですね……(笑)



自分でもそう思います。(笑)
ただ、そのギャラリーで作家と一緒に絵を描く機会があって。その時、「やばい、めっちゃ楽しい」って思っちゃったんです。
最終的な引き金は、たったこれだけなんですね。



なるほど。



僕の知らない画材がたくさん出てるし、面白い表現をする作家が増えてて。「やっぱりやる!」ってなりました。
それで、ギャラリーのお手伝いは仲間に任せて、自分は作家の道を進み始めました。



紆余曲折はあれど、「絵を描く」というゴールに辿り着いてくれてよかったです。



ほんと、長かったなって思います。
そして、創作活動を再開したときに、親父や兄貴のことを思い出して。
「あの人たちのように、人生を全力で駆け抜けたい」と思ったんです。今も走っている途中ですね。
鶴 晃如の作品に込める想い





なんだか、「祈り」というテーマが重みを増した気がします。
改めて聞きたいのですが、どのような「祈り」を作品に込めているのでしょうか?



「作品を見てくれた人が幸せになる。人生を大切にしてくれる。」そんな感じです。
僕自身、「この人に出会ってよかった」と思われる、兄貴みたいな人になりたい。
抽象的ですが、自分の人生で学んだ大切なことを通して、人を幸せにできたらいいな、という祈りを込めています。



鶴さんの人生を少しでも知れてよかったです。
今日は本当にありがとうございました!



こちらこそ、ありがとうございました!
編集後記
僕がよく用いるリサーチ手法の一つに、「相手のSNSで使用されている言葉を観察すること」があります。
今回、「鶴 晃如」という人物を知るために、彼のInstagramを覗いてみました。
すると、印象的だったのがこの二つ。
- 「感謝の言葉」
- 「他人を応援する投稿・文章」
この2つが本当に多かったんです。SNSでは実はけっこう珍しく、すごいことだなと思いました。(たぶん、ご本人は無意識だと思うんですが……)
SNSで発信するときって、どうしても「自分をよく見せたい」気持ちに引っ張られがちじゃないでしょうか。
でも、今回の取材で、「あ、この人は利害を超えて、本当に人を大切にしたい人なんだな」と実感しました。その想いが日々の何気ない発信にも滲み出ていると思います。
その気持ちに、僕は、ただただ尊敬しかありません。
彼が創る「祈りを形にしたアート」、ぜひ一度、実際にご覧いただきたいと思います。
「鶴 晃如」という人間は、自分を誇張することなく、アートを楽しむ子どものような大人。作品のことも、ご自身のことも、楽しく話してくれるはずです。
個展やアートフェアでも作品を見られる機会が多く、ご本人が在廊していることもよくあります。ぜひ、足を運んでみてください。
※鶴 晃如の作品の展示については、本人のInstagramで確認をお願いします。
>>akiyuki_tsuru(Instagram)
>>akiyuki_tsuru_art(Instagram)










コメント
コメント一覧 (1件)
今は素晴らしい絵で世界中の人を感動させてくれている鶴さんですが、その笑顔と絵を描くというキッカケの裏に空虚な時間があったんだと知りました。
絵や写真は作家の心を写すと言いますが、そこを乗り越えたからこその繊細で力強く美しい作品が生まれるんだと思います。
感謝の言葉、応援する言葉に溢れているのもとても納得したし、自分もそんな器を持ちたいと強く思いました。
今後も、祈りをこめた美しい作品を楽しみにしています!
素敵な記事をありがとうございました!